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イサクの燔祭。
ミッション系、ユダヤ教系(日本にあるのか?)の学校に通った人々ならば、恐らく一度は学んだであろうイサクの燔祭。
旧約聖書に記されている話である。

父・アブラハムが神から命じられ、愛する息子イサクを生贄に捧げる。
そしてアブラハムは神を信じ、イサクを祭壇に連れて行き、刃物を振り上げたその時、神の使いが現れて、その行為を止めさせた。
そして近くで草に引っかかっていた羊を代わりに捧げましたよって話。

そのイサクが180歳まで生きたってのも解せないんだけども、それ以上にこの話自体がイマイチ解せない。
このイサクの燔祭の動機(目的)は3つだと言われている。

一、アブラハムの信仰心を試すため。
二、儀式が行われる場所モリヤの山が神聖な場所であると示すため。
三、当時イスラエル民族に横行(?)していた人身御供を絶つため。

といったことらしい。

まず動機として言われている2番目の「モリヤの山が神聖な場所だと示すため」という話。
これがもし神の試練の動機だとするならば、ますます旧約聖書というものは胡散臭いものとなってしまう。
神格化というものを神自身が無理矢理やろうとしたことになってしまうからだ。
ただこのモリヤ山に関しては僕の勝手な推測としてはソロモン王がエルサレム神殿をこのモリヤ山に建築していることから、そのための神格化として旧約聖書が伝来していく中で書き換えられたものではないかと思っている。
ユダヤ教においてこのモリヤ山を重要なものだということを知らしめるためではないだろうか。
だからモリヤ山でなきゃいけなかったという理由は後からつけられたものだと推測するに、動機にはならない。

3番目の動機。人身御供を滅するため。
主に人身御供は他教で行われているものであり、このイサクの燔祭により他教が「じゃあうちも止めよう」とはならないと思う。基本、宗教というものは他宗教に対して排他的であり、他教の信仰を取り入れることは少ない。
こういったイサクというものを使う形で否定することにより、この旧約聖書の神というものの優位性を確認させる作業であると思われ、イマイチ真実味を帯びない。
だからこの動機を僕は否定する。


最後、アブラハムの信仰心を試すため。
これが一番、動機としてはしっくりくる。
しかし、だとしたら何故なのだろうと思わざるを得ない。

子が出来なかったアブラハム。しかし神の祝福によって90歳にしてイサクを授かる。その時に神は
「星の数ほどの子孫がイサクから増えるだろう」
みたいなことを言ってるわけだ。
だからまぁ、アブラハムはイサクを生贄として捧げよって言われて「え?」と思うよね。ここでイサクが死んだら、あの約束はどうなってるんですか???みたいな。
ここで果たしてアブラハムはなんと思ったのか。
そりゃアブラハムさんに聞かなきゃ解らないんだけども、きっと信仰の篤い人だから
「神が言うのだからきっと意味があるのだろう。」
と恐らくそんなとこか。だけども

「彼はまた、神は死人の中からさえ人を復活させることができると考え、型として、死人の中から自分の子を返してもらったのです。」(ヘブル人への手紙19:11)

という一節から考えるにアブラハムは神が死人を復活させる力があると思っていた。
もしかするとアブラハムは「もしイサクが死んでも神が甦らせてくれるかもしれない」と考えていたのかもしれない。
ということは
「神が言っていることは矛盾(イサクの死≠子孫繁栄)してるからこそ、ここでイサクを捧げても神が復活させてくれる」
と考えて、捧げている可能性があるわけだ。
うがった見方をすると、アブラハムは「まぁ、生き返らせてくれるんでしょ?」と思っていた可能性もある。それは信仰心が深ければ深いほど、神の力を信じているのだからそう思う可能性があるわけだ。
じゃないと矛盾してしまい、まさか「神様の心変わりか」なんて思うはずもないのだから。
そして、信仰心の篤いアブラハムはイサクを捧げる。
で、神からするとそういったアブラハムの信仰心を試したわけだ。

だけどね。
その昔、野島伸司は
「愛するということは信じることですらない。疑わないことだ」
という言葉を残しました。(死んでないけど)

別に野島伸司を信仰しているわけではないのだけども、この言葉は非常に真理を突いていると思う。
アブラハムは今までかなり神に対して信仰心を示している。
それなのに何故にまた試すようなことをするのか。

確かに神はアブラハムにイサクを与えた。そして子孫繁栄するとまで告げた。
結果として、イサクは助かり、約束どおり子孫は繁栄した。
しかし、イサクを生贄として捧げる時点では、イサクの命が費えることにより、アブラハムはこの約束はどうなるんだ!?と考えていたと察するにやはりこれは双務契約ではなく一種の片務契約に近い。
もちろん信仰というものは与えられることを前提としたものではないのだろうから、片務契約でもいいのだろう。

だけども、神は疑っていたということか。
神はアブラハムを愛していなかったのか?
逆にもしアブラハムが神に対して矛盾を感じたらそれは神を愛していなかったということになる。

信じるものは救われる

これは完全なる結果論であり、約束されたものではないということだ。
しかも神を信じていなければこのイサクの燔祭の行為は行われない。

アブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ。」彼は答えた、「はい、ここにおります。」み使が言った、「わらべに手をかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子さえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った。」(創世記22:10~12)

という節があるのだが、簡単に言うならば、神を信じ、その信じた神のお告げに従い、そして神に止められ、より神への信仰を深める。
なんかね、ここにものすごい矛盾を感じてしまうわけですよ。

この話に限らず様々な宗教に関する逸話というものはいわば、壮大な自作自演なわけだ。

ドラマTRICKなんかでもよく新興宗教が扱われていたが、その多くがやはり奇術のようなものであり、それによって起きたことを「奇跡だ」といって信仰を深めるきっかけとしている場合が多い。
中島らもの「ガダラの豚」という小説にも似た様な話があった。
これはドラマだけの話ではなく、事実として新興宗教では用いられている手法である。
別にこの「イサクの燔祭」を奇術だというわけではない。

宗教にはドラマが必要なわけだ。
本来、信仰により得られるものがあるとするならば平穏無事であるはずなのに、そこに出来事を求める。
宗教はドラマチックでなければならない。

まぁ、このアブラハムとかイサクとかが実在したか否かすら解らないし、キリスト教的には、イサクの代わりに生け贄にされた羊は神がキリストを人の罪の贖いのための生贄にするという、救いを示唆・象徴しているとされているし、自分が焼かれる薪を背負っているイサクは十字架を背負ったキリストの示唆・象徴と言われているが、そういったことから考えてもやはり宗教的な逸話として使用されていると考えるべきなのだろう。

とまぁ、ここまで書いてきて、一体この話の何が解せないのか。

神からの試練であっても我が子を捧げ、そして我が子に刃物を振るうのか。

これである。
信仰というものはそんなにまでしなければいけないものなのか?
神というものはそこまでして信仰を求めてくるのか?
僕は子供は居ないから、現実味を持って考えることは出来ないのだが、僕には出来ない。

自分の愛する子供を捧げることを求める神なんてくそくらえだ。

試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。(ヤコブの手紙1:12)

とあるけども、その求めに応じ、結果論として冠を受けたって、そんな神なら背いてやる。

だから、そこまで求めてくる神というものを僕はどうも信じることが出来ないのだ。

例え人間が愚かで、間違いを犯す生き物であっても、自分の感覚を越えてまで信仰に無条件に身を捧げることは出来ない。
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